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自宅で味わう旬のフルーツセット
自宅で味わう旬のフルーツセット
果物売場には一年を通してさまざまな果物が並んでいます。
りんご、みかん、キウイ、バナナなど定番の果物はもちろん、季節によって桃やぶどう、梨、柑橘類なども登場します。
しかし、種類が多いからこそ「今何が美味しいのかわからない」という方も少なくありません。
そんな時におすすめなのが旬のフルーツセットです。
その時期に美味しい果物を中心に詰め合わせたフルーツセットは、自宅にいながら季節の味覚を楽しめる人気の商品です。
旬の果物には旬の美味しさがある
果物にはそれぞれ旬があります。
旬とは、その果物がもっとも美味しくなる時期のことです。
春にはいちごや柑橘類、夏には桃やメロン、秋にはぶどうや梨、冬にはりんごやみかんなど、季節ごとに主役となる果物は変わっていきます。
旬の果物は香りが豊かで、果汁も多く、その時期ならではの美味しさがあります。
だからこそ果物専門店では、その季節に状態の良い果物を中心に販売しています。
旬のフルーツセットも同様に、その時期ならではの美味しさを楽しんでいただくための商品です。
自分では選ばない果物との出会い
果物を購入する時、どうしても好きな果物ばかり選んでしまうことがあります。
いつも同じりんご。
いつも同じみかん。
もちろん好きな果物を楽しむことは素敵なことです。
しかし、旬のフルーツセットには普段手に取らない果物が入ることもあります。
それが新しい美味しさとの出会いになることも少なくありません。
「こんな果物があったんだ」
「思った以上に美味しい」
そんな発見も、お任せスタイルの楽しみのひとつです。
果物には数多くの品種があり、季節ごとにおすすめも変わります。
だからこそ、その時期に美味しい果物を楽しむ価値があります。
食卓に季節感を届ける
旬のフルーツセットは、単に果物を届けるだけではありません。
箱を開けた瞬間に季節を感じることができます。
夏には桃やメロンの香り。
秋にはぶどうや梨の彩り。
冬には柑橘の爽やかな香り。
季節ごとの果物が食卓に並ぶことで、日々の暮らしにも季節感が生まれます。
忙しい毎日の中では、季節を意識する機会が少なくなりがちです。
そんな中で旬の果物は、四季の移り変わりを身近に感じさせてくれる存在です。
ご自宅用だからこそ気軽に楽しめる
フルーツセットというと贈り物のイメージを持つ方も多いかもしれません。
しかし近年は、自宅用として購入される方も増えています。
家族で楽しむために。
朝食用として。
健康的なおやつとして。
理由はさまざまです。
ご自宅用のお任せフルーツセットは、気軽
に旬の果物を楽しみたい方にもおすすめです。
専門店がその時期におすすめの果物を選ぶため、何を選ぶか悩む必要もありません。
旬を楽しむという贅沢
果物は季節によって表情を変えます。
その時期だけの美味しさを楽しめることは、旬の果物ならではの魅力です。
自宅で味わう旬のフルーツセットは、特別な日のためだけの商品ではありません。
毎日の暮らしの中で季節を感じるためのひとつの楽しみでもあります。
旬の果物とともに、その季節ならではの味わいをゆっくり楽しんでみてはいかがでしょうか。
季節の果物を楽しむ暮らし
季節の果物を楽しむ暮らし
季節が変わるたびに、店頭に並ぶ果物も少しずつ変わっていきます。
春にはいちごや柑橘類、夏には桃やメロン、秋にはぶどうや梨、冬にはりんごやみかん。
果物は昔から季節を感じさせてくれる食べ物のひとつです。
近年は一年を通してさまざまな果物が手に入るようになりました。しかし、その果物がもっとも美味しくなる「旬」の時期には、やはり特別な魅力があります。
旬の果物は香りが豊かで、味わいにもその季節ならではの個性があります。
果物を食べることは、季節を味わうことでもあるのです。
果物が教えてくれる季節の移り変わり
私たちの暮らしは便利になり、季節を意識する機会が少なくなりました。
冷暖房の整った室内で過ごし、全国どこでも同じ商品が購入できる時代です。
それでも果物売場を見ると、季節の変化を感じることがあります。
桃が並び始めると夏の訪れを感じ、ぶどうが店頭に増えてくると秋の気配を感じる。
みかんを見ると冬を思い出す方も多いのではないでしょうか。
果物は旬を通して季節の変化を知らせてくれます。
だからこそ、季節ごとの果物を楽しむことは、暮らしの中に四季を取り戻すことにもつながります。
食卓に果物があるという豊かさ
果物は特別な日の贈り物というイメージを持つ方もいらっしゃいます。
もちろん贈答用として利用されることも多いですが、自宅で楽しむ果物にも大きな魅力があります。
朝食にキウイやオレンジを添える。
休日のおやつに旬のぶどうを楽しむ。
夕食後に家族で果物を分け合う。
そんな何気ない時間の中に、果物は自然と溶け込んでいます。
特別なことをしなくても、食卓に果物があるだけで少し気持ちが豊かになる。
果物にはそんな力があるように感じます。
旬との出会いを楽しむ
普段購入する果物は、どうしても決まったものになりがちです。
りんごが好きだからりんご。
みかんが好きだからみかん。
もちろんそれも楽しみ方のひとつです。
しかし旬の果物に目を向けると、新しい発見があります。
その年によって出来が良い品種があったり、普段あまり見かけない果物が入荷したりすることもあります。
季節ごとに変わる果物との出会いは、果物好きの方にとって大きな楽しみです。
お任せフルーツセットも、そんな旬との出会いを楽しんでいただくための商品です。
その時期に美味しい果物を中心に組み合わせることで、季節ならではの味わいをお届けしています。
季節を味わう暮らし
忙しい毎日の中では、つい季節の変化を見過ごしてしまうこともあります。
そんな時こそ果物は身近な季節の便りになります。
春のいちご。
夏の桃。
秋のぶどう。
冬のみかん。
季節ごとに変わる果物を楽しむことは、暮らしに小さな彩りを加えてくれます。
旬の果物を味わいながら、その季節ならではの美味しさを楽しむ。
そんな時間を大切にしてみてはいかがでしょうか。
果物は、季節の豊かさを食卓へ届けてくれる存在なのです。
くだもの屋の絵本:わたしの好きなこと
今回の「じてんしゃのれるかな?」は、自分でもかなり気に入っている物語です。
なぜ気に入っているのか。
完成した時はよく分かりませんでした。
でも何度か読み返しているうちに、一つのことに気付きました。
どうやら自分は思っていた以上に「結果」より「過程」が好きらしいのです。
自分ではずっと現実主義だと思っていました。
商売をしている以上、数字も見ます。
結果も見ます。
利益も考えます。
だから当然、自分は結果を重視する人間だと思っていました。
ところが、この物語を読み返してみると少し違いました。
この話が生まれたきっかけはシャインマスカットでした。
店に入荷したシャインマスカットを見ながら、いつものように花言葉を調べていました。
すると、
「努力の実り」
という言葉が目に入りました。
その瞬間、ふと思い出した人がいました。
カナンのモデルになった元アルバイトです。
そういえば、自転車に乗れなかったな。
そんな記憶がよみがえりました。
そして「じてんしゃのれるかな?」という物語が生まれました。
この話を書く時に考えていたのは、自転車に乗れるようになる瞬間ではありませんでした。
何度も転ぶ姿でした。
泣いてしまう姿でした。
それでも立ち上がって挑戦する姿でした。
だから絵本の中でも、成功する場面より転ぶ場面の方が多く描かれています。
今思えば、それが自分らしかったのかもしれません。
読み返しているうちに、もう一つ気付いたことがあります。
この物語の主人公は、本当にカナンだったのだろうか。
もしかするとカーヤだったのかもしれません。
カーヤは何も教えません。
励ましもしません。
特別なことは何もしません。
ただ、ずっと見守っています。
実はモデルになった二人の関係もよく似ていました。
少し危なっかしいカナン。
どこか母親のようなカーヤ。
もし物語の中で口げんかになったら、
「そんなに言うならカーヤものってみなよ!」
と言われて、
実はカーヤはもう乗れる。
そんな関係でした。
そして今回、実りの森のグレンでは初めてのことがありました。
グレンが果物を贈り物として使ったのです。
これまでの物語では、
果物を見つける。
果物を知る。
果物を分け合う。
そんな場面が中心でした。
でも今回は違います。
最後にグレンはぶどうを持ってきます。
「努力の実りだから食べよう」
そんな説明はしません。
ただ、いっぱい頑張ったカナンにぶどうを渡します。
それだけです。
後から考えると、それは橋本フルーツの考え方そのものだったのかもしれません。
果物は目的ではありません。
果物は団らんのきっかけです。
誰かを喜ばせるため。
誰かを労うため。
誰かと時間を共有するため。
果物には、そんな役割があると思っています。
今回のぶどうも同じでした。
自転車に乗れたお祝いというより、
頑張った時間をみんなで味わうためのぶどうだったのです。
そして一番驚いたのは、最後の言葉でした。
普通なら、
「じてんしゃのれたね!」
で終わる物語かもしれません。
でも自分が選んだ言葉は違いました。
「いっぱい がんばったね」
でした。
乗れたことではなく、
頑張ったことを褒めていました。
思い返してみると、これは絵本だけではありません。
バドミントンでもそうです。
商売でもそうです。
自分が面白いと思うのは、成功した瞬間ではありません。
芽が出る瞬間です。
変化が始まる瞬間です。
結果より過程。
実より芽。
今回の絵本は、そんな自分の価値観が一番自然に表れた物語だったのかもしれません。
そして今思うのは、この物語の本当のテーマは、
「自転車に乗れるようになること」
ではなかったということです。
本当に描きたかったのは、
「見守ってくれる人がいるから挑戦できること」
だったのだと思います。
転んでもいい。
失敗してもいい。
その姿を信じて見守ってくれる人がいる。
だから人は、もう一度挑戦できる。
「じてんしゃのれるかな?」は、そんな小さな勇気と成長の物語でした。
くだもの屋の絵本:今日もぶどうを眺めている
実りの森のグレンの新しいお話で、ぶどうを題材にした物語を作りました。
正直に言うと、今回も最初から深いテーマを考えていたわけではありません。
いつも通りです。
まず果物を決める。
調べる。
そして物語を考える。
実りの森のグレンは、いつもそんな順番で生まれています。
ぶどうを見ていて最初に面白いと思ったのは、
「一つの実なのに、たくさん集まっていること」
でした。
桃は一つ。
梨も一つ。
メロンも一つ。
でもぶどうは違います。
一つの房の中に、たくさんの実が集まっています。
果物屋として毎日見ている光景なのに、改めて考えると不思議でした。
どうしてこんな形をしているんだろう。
そんな疑問から今回の物語が始まりました。
絵本の中でミスター・ポムは、
「春から夏まで、ゆっくり時間をかけて育つんだよ」
と話します。
ところがグレンは、その時間にはあまり興味を示しません。
グレンが反応したのは、
ぶどうの房そのものです。
「ほんとだ!なんだかおもしろいね」
グレンが見ていたのは、
一つなのに、たくさんある。
その不思議な形でした。
そして後になって気付きました。
それはグレンの反応というより、たぶん私自身の反応だったのです。
私は昔から、
「すごい」
よりも
「おもしろい」
に反応する人間でした。
果物もそう。
バドミントンもそう。
人もそうです。
何か新しいものを見つけた時、
「それで何ができるんだろう」
より先に、
「なんだそれ、面白いな」
と思うことが多いのです。
実りの森のグレンも、そんな好奇心から生まれています。
物語の最後でグレンはこう言います。
「いっぱいあるから みんなでたべられるね」
この言葉も、作っている時は特別な意味を考えていたわけではありません。
でも後から読み返してみると、とても自分らしい言葉でした。
私は果物が好きです。
でも本当に好きなのは、果物そのものではないのかもしれません。
果物を囲む時間。
誰かと一緒に食べる時間。
その時間が好きなのだと思います。
スイカもそう。
さくらんぼもそう。
ぶどうもそう。
果物には不思議と「分ける文化」があります。
一人で食べても美味しい。
でも誰かと食べると、少しだけ楽しい。
果物には、人と人をつなぐ力があるように感じます。
実りの森のグレンで最後にみんなが果物を食べているのも、きっとそのためなのだと思います。
考えてみると、橋本フルーツも少し似ています。
果物屋から始まったはずなのに、
ギフトがあり、
法人事業があり、
ECがあり、
オードブルがあり、
そしてグレンがあります。
まるでぶどうの房のようです。
一つの軸から、たくさんの実が生まれている。
そして、それぞれ違う誰かのもとへ届いています。
ぶどうを描きながら、そんなことを考えていたわけではありません。
ただ、
「一つなのにいっぱいある」
という事実が面白かっただけです。
でも物語というのは不思議なもので、作り終わった後に自分自身の考え方が見えてくることがあります。
今回のぶどうの物語もそうでした。
もしかしたら豊かさというのは、
たくさん持つことではなく、
たくさん分けられることなのかもしれません。
そんなことを考えながら、
今日もぶどうを眺めています。
くだもの屋時々絵本作家
最近、ふと思ったことがある。
俺は果物屋だ。
これは間違いない。
毎日果物を仕入れて、並べて、販売している。
でも最近、自分のスマホを見ると少し不思議なことになっている。
果物の写真よりも、実りの森のグレンの画像の方が多い。
売上のことを考えている時間よりも、
グレンが次に何を見つけるのか考えている時間の方が長い気がする。
これは一体どういうことなんだろう。
少し前までの俺は、絵本なんて作ったこともなかった。
絵本作家になりたいと思ったこともない。
それなのに気付けば「実りの森のグレン」を作っている。
果物屋なのに絵本を作る。
冷静に考えると少し不思議だ。
でも最近思う。
グレンは突然生まれたわけじゃない。
ずっと前から自分の中にあったものが、たまたま絵本という形になっただけなのかもしれない。
俺は昔から、大人に対して思うことがあった。
「見えていないな」
ということだ。
子供の頃の俺は、橋本家の末っ子長男だった。
頼りない。
甘やかされている。
周りからはそんな風に見えていたと思う。
でも学校では三年間学級委員をやった。
バドミントン部の部長もやった。
顧問不在の中で関東大会にも出た。
だから余計に思っていた。
人は案外見えていない。
見えているつもりになっているだけなんだなと。
親父が亡くなった時もそうだった。
色々な言葉を掛けられた。
その中には、
「お前には無理だ」
という言葉もあった。
今なら分かる。
悪気があったわけじゃない。
ただ見えていなかっただけなんだと思う。
だから俺は昔から共感より理解を求める。
共感できなくてもいい。
でも理解しようとしてほしい。
そんなことをずっと思っていた。
この一年、ある中学生を指導させてもらった。
本人は一生懸命頑張っている。
周りも応援している。
それでも結果が出ない。
でも俺には見えていた。
少しずつ変わっていることが。
本人も気付いていない成長があることが。
技術ではなく、体の使い方。
考え方。
見えない部分が少しずつ変わっていた。
そしてある時から、教えた覚えのないことまで出来るようになっていた。
指導しているつもりだった。
でも振り返ると、学ばせてもらったことの方が多かった気がする。
俺は誰かを育てたとは思っていない。
種を渡して、水をあげただけだ。
芽を出したのは本人だ。
ただ、もしその芽が枯れそうになったり、誰かに摘まれそうになったりしたら、その時は全力で守ると思う。
グレンも同じなのかもしれない。
果物の話を書いているようで、本当は種の話を書いている。
まだ見えていない可能性の話を書いている。
誰の中にも種はある。
でもその種は外からは見えない。
本人ですら気付いていないこともある。
だから俺は子供の成長を見るのが好きなんだと思う。
結果じゃない。
変化の途中を見るのが好きなんだ。
そして多分、この一年がなかったらグレンは生まれていなかった。
指導させてもらったつもりだった。
でも本当は、俺の方が学ばせてもらっていたのかもしれない。
果物屋なのに絵本を作っている理由は、今でもよく分からない。
ただ一つ分かることがある。
グレンは俺が作った物語ではあるけれど、俺一人では生まれなかった。
家族との時間。
果物屋として出会った人たち。
子供たちとの時間。
そして様々な出会い。
そういうものが少しずつ積み重なって生まれてきた物語なんだと思う。
だからしばらくは、
くだもの屋時々絵本作家でいようと思う。













